2018年2月4日日曜日

反戦・非暴力の思想を生活の中でカタチにした阿波根昌鴻さん。それが協同組合。(18.2.3)

311の福島原発事故を経験したあと、それまで手にし、接していた思想、芸術が全く意味を失い、どうでもいいものに思えた一方、かつて手にし、この間すっかり忘れてしまっていたものが改めて目の前に迫ってくるものがありました。
その1つが阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんと彼の「米軍と農民」「命こそ宝」です 。



阿波根さんは1901年3月3日、沖縄本島の本部村山川に生まれました(伊江島の対岸の赤マーク)

家は明治維新で没落した貧乏士族の出で、農業を営んでいましたが、阿波根さんは農業をやる気になれず、幼い頃から学問に憧れを持ち、勉強して先生か勤め人になろうと思い、父に上級の学校にあげてくれと頼むと、父は
「学校を出て貧乏になるのと、学校に行かずに金持ちになるのとどちらがいいか」
と聞きました。即座に、阿波根さんは、自信満々にこう答えました。
「学校も出て金持ちにもなります」(「米軍と農民」7頁)

17歳の春、沖縄県立嘉手納農林学校に入学。本部村から嘉手納(下の地図の赤マーク)まで馬車の運賃60銭を節約するため、10里(約40キロ)の道を父と机や寝具をかついで朝未明に出かけ、夜9時に到着。

しかし、この遠路を重い荷物を背負って歩行したためか、阿波根さんは神経痛となり、2ヶ月もしないで休学。大分別府で牧師宅に世話になり温泉治療し、1年間過ごす。
沖縄に戻ったものの、農業は好きでなく、どうしても勉強したいと思いながら金がないため、どうすることもできず、そこで上京を決意し、東京でアルバイトしながら学ぶ積りで、ひとまず大阪までの旅費を工面して大阪まで行き、東京までの旅費は大阪で働き作ることにしようと思っていた矢先、関東大震災が発生。東京は壊滅と知り、東京行きを断念、再び沖縄に戻る。

学校に行けないと失意の底にあった時、キューバ出稼ぎの募集があり、「キューバで稼いで、その金で高校から大学まで行こう」と決意し、25歳、キューバに渡航。
しかし、当時のキューバは名目の独立国で、実権はアメリカが握り、アメリカに同調する一握りを除いて人々は奴隷のような生活をしていました。 阿波根さんも年に3~4ヶ月の製糖期だけしか仕事がなく、荒地から荒地へ渡り歩く生活を5年間続け、そこからペルーに向かいました。
ペルーで日本人が経営する床屋に勤め、その頃からどうしても沖縄に帰らなくてはと考え、死に物狂いで働き、生活は服はゴミ捨て場から拾ってきた物を着て倹約しました。
ところが、友人が結核になり、妻子の顔を見て死にたい、だからどうしても沖縄に帰らなければならないということで、今まで必死の思いで貯めた金1000円をそっくりその彼にあげてしまいました。
それからもう一度、必死にお金を貯め、ようやく700円を作り、あと必要な300円は盛大な送別会をする代わりに選別としてもらい、それで、10年ぶりに沖縄に帰ってきました。
何一つ土産も持たず、つぎあてのボロの労働着だけを記念品みたいに持って帰りました。
その頃はもう学問への夢も破れ、唯一、ペルーの古本屋で求めた西田天香の「懺悔の生活」の言葉だけで生きてきました。
日本に着くと、すぐ京都山科の一燈園に西田天香を尋ね、「一燈園の同人になりたい」と申し出たところ、西田に「あなたは沖縄に帰って農業をした方がいい」と言われました。そこで、阿波根さんは「自分は身体も弱く、土地もなく、農業の経験もない」ことを話しましたら、西田はこう言いました。

土地も経験もいらない。ただ1つ大切なことは、あなたが私欲のために働くか、それとも社会のために働くか、それによって成功するか失敗するか決まる。社会のために働くならばすべて必要に応じて与えられる

阿波根さんはこの言葉を胸に刻み、そのあと、内村鑑三らが設立した沼津市の興農学園でデンマーク式農業を学び、理想の農村を築こうと沖縄に戻ってきました。父から伊江島に渡る費用30銭を借りて、どうにか伊江島に渡り、住む家もないので、住民が南洋に移住し幽霊が出ると嫌われた空き家を借りて住み始めました。
当初はその日その日をどうにか食いつなぐ生活でした。やがて、親戚から金を借りて小さな雑貨店を始め、その売り上げで、島でいちばん安い捨て地をせっせと買い込み、4万坪(東京ドーム約3個分)の原野を手に入れ、試行錯誤しながらどんどん木を植え、4万坪の原野を森林に変えました。

この理想に向かって取り組む姿を見て、伊江島の人たちは、彼を「頭がおかしい」きちがい扱い、変人扱いしました。 しかし、彼は自分で正しいと信じておりましたので、周囲の声を気にすることはありませんでした。

阿波根さんは4万坪の大森林に、 賀川豊彦が立ち上げた農業協同組合、生活協同組合を築きたいと、「キビを沢山植えて、伊江島の製糖工場の力になればという生産の夢」を持ち、「ヤマトの寒い時期に、お年寄りたちに来てもらい過ごせる保養地にしたい」夢を持ち、全寮制、学費無料の理想のデンマーク式農学校の建設も進み、8割方完成した頃、この小さな島にこの夢を打ち砕く事態が起こりました。


太平洋戦争で、米軍が沖縄で最初に攻撃した島が阿波根さんの伊江島だったのです。このときの「神も仏もいない」惨状を、こう記しています(「米軍と農民」15~16頁)。


                    「命こそ宝」8~9頁より

しかし、伊江島での激戦が終わり、運良く生き残った阿波根さんたちはそれで戦争は終わったわけではなく、本当の苦しみはその後も続いたのです。それが「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる米軍による土地の強制的な取り上げでした。

1954年9月、米軍は阿波根さんたちの真謝区の150坪の土地接収と150戸の立退きを通告しました。これに対し、生きていけなくなるからやめて下さいと苦境を訴えた陳情書を持って琉球政府らに訴えましたが、阿波根さんたちが血のにじむ思いで苦労して作った陳情書は2度も琉球政府の机の中にしまわれたままでした。当時の阿波根さんたちを襲った「孤独感に耐えられぬ思い」について、以下のように書いています(「米軍と農民」80頁)。



1955年3月14日、米軍は、81戸の土地を奪い、阿波根さんたち13戸の家を「銃剣とブルドーザー」で破壊し、奪った土地に鉄条網と「立入り禁止」の札を立てました。




しかし、土地を奪われた阿波根さんたち農民は、生きるため、翌月から、立入り禁止区域に入り農耕を開始。


 これに対し、米軍は、6月13日、演習地に無断で立ち入ったとして、農民80名を逮捕、暴行、奴隷的な屈辱を加えた上、働き盛りの32名を選んで軍用機で嘉手納基地に運びました。翌14日、32人に対する即決軍事裁判がゴザ警察署内で行われました。結果は3カ月の懲役、1年の執行猶予判決。しかし、釈放された農民たちは島に帰らず、琉球政府の役所前で座り込みの抵抗を続けます。
その頃、伊江島の女性たち5人が、自発的に、 琉球政府の役所前で座り込みの抗議行動を起こします。これを撮影した阿波根さんはこう思ったという。

私はこれを見たときにですね、これがほんとうに沖縄の心。守礼の邦の人間。そして、私は伊江島にはまだほんとうの人間が住んでおるという言っておったわけでありますが、これが本当に沖縄の心、伊江島の人間の姿であると思っております。
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そして、その翌月7月から、生きるため、また世間に伊江島の実情を訴えるため、
乞食をするのはずかしい。しかし、我々の土地を取り上げ、われわれに乞食をさせる米軍はもっと恥ずかしい
とプラカードに書いて沖縄本島縦断する「乞食行進」開始し、翌年2月まで続けます。



このあとも、米軍による人権侵害と農民による抵抗がくり返されます。生きるために、農民は立入り禁止区域に入り農耕を続行すると、米軍は立入り禁止区域への通行証を発行し、農民に渡そうとします。しかし、農民はこの通行証の受け取りを拒否します。通行証を受け取れば土地明渡しを認めることになるからです。さらに、農民は米軍が取り上げた土地に立てた「立ち入り禁止」の立て看板を引き抜き、そこに「地主以外の立ち入り禁止」の看板を立てました。そして、米軍が張り巡らした金網も撤去しました。こうした農民の抵抗に対し、米軍は農民の逮捕、投獄で応酬し、米軍による蛮行が続きました。これは米軍と農民の根気くらべであり、米軍の侵害にひるまなかった農民に対し、米軍はジワジワと立ち入り禁止区域の後退を余儀なくされていきました。


阿波根さんたちがやってきたことは反戦=「命こそ宝」という思想を「非暴力」で貫き通すことでした。

問題はどうしたら、この反戦・非暴力=土地返還を求める抵抗運動を、とび抜けてずる賢い米軍との知恵くらべ、根気くらべに負けずに、粘り強く持続できるかということでした。阿波根さんはそのための条件を考え抜き、その中で、
1つは米軍の悪知恵に負けないだけの智慧を身につけること、そのためには学ぶことの大切さを自覚し、実行すること(事実、 阿波根さん自信も、65歳で東京の中央労働学院に入学)、

もう1つは「生活を大事にすること」、具体的には、人々が経済的にも対等に助け合う、「みんなで働き(協同労働)、みんなで運営する(協同経営)」という協同組合の創設に取り組みました。
その際、身体の不自由の人や弱い人も対等に一緒に働ける場所を作ろうと考え、琉球大学の生協の人たちからサポートしてもらい、70年、伊江島の中央に鉄筋コンクリート3階建ての生協会館を建設しました。
それは太平洋戦争で挫折を余儀なくされた、「賀川豊彦が立ち上げた農業協同組合、生活協同組合を築きたい」という戦前からの取組みの再開でした。

参考情報:
阿波根昌鴻さんの年表(一般社団法人「わびあいの里」作成)

非暴力の抵抗を持続した「阿波根昌鴻と島ぐるみ闘争



 

2018年2月1日木曜日

もうひとつの復興は可能だ--モンドラゴンの可能性の中心--

日本政府がチェルノブイリ法日本版を制定しないため、福島原発事故で放射能汚染された地域の住民には避難の権利が保障されず、その結果、汚染地の人々は
一方で、避難できず、放射能により命・健康が脅かされるか、それとも
他方で、避難するが、避難先で暮らしが保障されず、貧困に脅かされるか、
という「貧困の脅威のもとで命・健康を守るか、命・健康の驚異のもとで暮らしを守るか」という、命・健康と暮らしが両立しない途方もない苦境に追い込まれました。

この苦境を作り出した張本人である日本の政治及び政治家の責任というものは残忍酷薄、重大極まりないもので、いずれ、必ずその責任が追及される日が訪れます。

しかし、汚染地の人々は、その日までずっと、じっと我慢する必要はありません。
命・健康と暮らしを両立させる、もうひとつの復興は可能だからです。
それが「モンドラゴンの挑戦」です。70年前、スペイン内戦で敗北し、荒廃し、見放されたスペイン・バスク地方の寒村モンドラゴンで、28歳の神父アリスメンディアリエタたちが始めた、「みんなで働き(協同労働)、みんなで運営する(協同経営)」モンドラゴンの協同組合による経済再建の取組みです。
これがやがて、世界金融危機が訪れた2008年、むしろ14,938人の新規雇用を創出して‥‥奇跡を起こしたスペイン第9位の企業になりました。

モンドラゴンの人たちは言う--モンドラゴンはユートピアではないし、自分たちも天使ではないと‥‥ただ一緒に生き残る賢明な道を探しただけだと。》(映画「モンドラゴンの奇跡」)

  
もともと、福島原発事故に加害責任を負う日本政府は、自らの加害責任を果たし、住民の救済を実行する責任があるのは言うまでもありません。
しかし、すべてを政府におんぶにだっこで、政府による救済をもっぱら受け身で待つことが本来の救済ではありません。その救済は「住民が経済的に自立する」というゴールを目指し、それに向かって住民が真に前進できるように、政府が支援、サポートするものでなければなりません。

「住民が経済的に自立する」という目標をただのうたい文句ではなく、生きたカタチにした1つが、「みんなで働き(協同労働)、みんなで運営する(協同経営)」という協同組合です。「人はバラバラでは外敵に対し孤立・無力だが、連帯したときは負けない」という単純な真理の経済への応用です(以下はそのイメージ図です)。

これに対し、今まで、人に雇われて仕事をしてきたことはあっても、経営した経験なんかないから、無理だと尻込みする人がいるかもしれません。でも、心配ありません。生まれながら経営者だった人は1人もいません。みんなゼロから出発したのです。学ぶ意欲と勇気さえあれば大丈夫。モンドラゴンの人々もこう言っています。

モンドラゴンの人たちは言う--モンドラゴンはユートピアではないし、自分たちも天使ではないと‥‥ただ一緒に生き残る賢明な道を探しただけだと。》(映画「モンドラゴンの奇跡」)

私たちも、勇気を出して、一緒に生き残る懸命な道を一緒に探しましょう。 そして、経済的にも精神的にも自立しましょう。それが「もうひとつの復興、モンドラゴンの挑戦」を再定義し、私たちの未来をカタチにすることです。

お金は足りている。足りないのは愛と連帯(経済)

311事故当時、関西にいた東京電力の清水正孝社長は自衛隊機で東京本社に戻ろうとして、搭乗を拒否されました。その自衛隊機に、311直後の3月18日に乗り込み福島入りして、

国の基準が20ミリシーベルトという事が出された以上は、 我々日本国民は日本国政府の指示に従う必要がある。
日本という国が崩壊しないよう導きたい。チェルノブイリ事故後、ウクライナでは健康影響を巡る訴訟が多発し、補償費用が国家予算を圧迫した。そうなった時の最終的な被害者は国民だ。
と発言したのは長崎大学の山下俊一教授です。
この発言に代表されるように、311直後から、財政負担が大変だという理由でチェルノブイリ法の制定を批判する声があがっていました。

しかし、本当に日本という国はお金が足りないのでしょうか。
なぜなら、日本政府は、他方で、311以後、
1、2012年の欧州債務危機に際しては、真っ先にIMF600億ドル(約5兆円)の拠出を表明しました(
4月17日、安住財務大)。よその国の問題解決のためにそれほどお金を出す用意があるのだから、自分の国で、放射能汚染の中に住む子どもたちの危機に際して、子どもたちの避難のために出すお金がないなんて言えません。また、山下氏は《日本という国が崩壊しないよう導きたい。》と言うのなら、安住財務相のこの発言に対してこそ真っ先に異議申立すべきです。しかし、彼はそんな異議申立はしていません。
2、2013年度の復興予算7兆5089億円のうち、35.3%の2兆6523億円が執行されなかったと復興庁が発表しました(2014年7月31日日経新聞)。なかでも、福島原発事故からの復興・再生予算は53%が使われませんでした。
3、誰ひとり住まない無人島(竹島・尖閣諸島)の救済には熱心に取り組むけれど、原発事故に何の責任もない、正真正銘の被害者である子ども達がたくさん住む福島については子どもたちを救おうともしなかった。いったい国を守るって、何なのでしょうか。

つまり、311直後に誰かが言った通り、日本政府も、
《お金は足りている。足りないのは愛なのです。 

しかも、その「足りない愛」は、ただの愛情ではなく、人々が被害から自立できるような《連帯の愛》です。
なぜなら、避難の権利の実現は、お金の給付だけで解決するような単純な取組みではないからです。この救済のプロジェクトは、単に箱物を作るといったハードの問題ではなく、汚染地から避難する人々の、避難先での新しい人間関係、新しい生活、新しい仕事、新しい雇用を作り出していく、そのためには、避難先の地域創生の取組みとセットとなって初めて、成し遂げることができる、壮大な再生の公共事業だからです。そのためには、これまでの行政主導型の公共事業では実現不可能であり、そこに様々な形で住民、市民が協力、支援、応援をするという、新しいスタイルの市民主導型の公共事業が求められます
つまり、原発事故という国難に対し、本当の意味で文字通り、オールジャパンで市民が参加して、避難者と一緒になって避難の権利の実現プロジェクトを遂行していく必要があります。

これが「 「オールジャパン」「公共事業」の再定義です。

これは決して夢物語ではありません。日本でも世界でも既に実例が存在するからです。

日本の実例
茨城県霞ヶ浦の再生で知られる「アサザプロジェクト」が、 市民主導型の公共事業の実例です。

                     アサザプロジェクトの全体像


また、地域再生では、市民参加型の公共事業として成功を収めた、人口3万の山形県長井市の地域資源循環型システムレインボープラン」。

世界の実例
世界では、国からも見放され、失業、貧困の経済的危機に直面した市民たちがそこから抜け出すため、お互いに助け合い、支え合うという相互扶助の精神で、協同労働=協同経営の新しい働き方を自ら取り組んで獲得し、 経済的危機を克服した事例がいくつもあります。

その代表的なものが、 70年前、スペイン・バスク地方の寒村モンドラゴンで、28歳の神父アリスメンディアリエタたちが始めた「モンドラゴンの協同組合」。彼は、スペイン内戦で荒廃した7千人の村を、協同組合創設により自主的に経済再建を成し遂げました。以下は、韓国の映像作家のドキュメンタリー(「モンドラゴンの奇跡」予告編)のモンドラゴンの紹介文です。

 《モンドラゴンの人たちは言う--モンドラゴンはユートピアではないし、自分たちも天使ではないと‥‥ただ一緒に生き残る賢明な道を探しただけだと。
 世界金融危機が訪れた2008年、むしろ14,938人の新規雇用を創出して‥‥奇跡を起こしたスペイン9位の企業
(映画「モンドラゴンの奇跡」)



神父アリスメンディアリエタ(ウィキペディアより)
 
ブラジルのポルトアレグレの連帯経済。以下は、現地を取材した日本人研究者のレポートです。
ポルトアレグレがつくる新しい世界参加型民主主義と連帯経済の源流」(小池洋一)



             参加型予算システムの中で最初に行われる地域住民による集会

カナダ・ケベック州の社会的経済


 


韓国の青年連帯銀行(トダクトダク協同組合。単なるお金の支援ではなく、お金をキーワードにして新しい仕事と仲間を作り出していった)。以下は、2015年に来日し、日韓の貧困問題を話し合う集会での紹介文(→集会のチラシ)。

 トダクトダク協同組合(青年連帯銀行)は2013年2月23日、「反貧困たすけあいネットワーク」をモデルにして、韓国で誕生。
“トダクトダク”とは、日本語に訳すと“トントン”。若者たちが、お互いを励まし合いながら背中をトントンとたたく姿をイメージしてつけられました。
「若者のためのオルタナティブなセーフティネット」
夢多き若者たちの連帯銀行「トダクトダク協同組合」は、若者が自らつくってゆく金融生活協同組合であり、若者のためのオルタナティブなセーフティネットです。
‥‥続きはこちら

311直後に自衛隊機で福島入りした人がこう言いました--ピンチはチャンス。どんなひどい人間でもいい言葉を
ひとつくらいは残すという見本ですが、いま、この言葉を単なる美辞麗句終わらせるのではなく、本当に活かすために、実現可能なビジョンとして掴む必要があります。

そのとき、既に日本と世界で若造たちの手で挑戦され、実現してきた、これらの実例をヒントにすれば、「ピンチをチャンス」に転換し、実現可能なビジョンとして掴めると思うのです。

ここがロードスだ、ここで跳べ!
 

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